鉄道開通は伊那谷の悲願

開業当時の伊那電気鉄道株式会社赤穂支社(出典:伊那電気鉄道株式会社開通記念帖)
開業当時の伊那電気鉄道株式会社赤穂支社(出典:伊那電気鉄道株式会社開通記念帖)

 明治25年(1892年)、甲府から上諏訪を経て「伊那谷」または「木曽谷」を通り名古屋へ通じる国鉄中央線建設が発表されました。ルート誘致合戦の末、工事費や技術的な理由から、明治27年(1894年)に「木曽谷ルート」が決定されました。
 この中央線誘致に敗れたことにより、伊那谷に鉄道を通そうとする機運が盛り上がります。まず、伊那谷へ中央線の支線を通そうと、当時の帝国議会議員で、鉄道局長であった伊藤大八を先頭に運動を進めた結果、岡谷から塩尻に行く途中に辰野を通る路線が実現しました。さらに、伊那谷に自力での鉄道建設の声が上がり、明治40年(1907年)、伊那電車軌道株式会社(後に伊那電気鉄道に改称)を設立。明治42年(1909年)、辰野-伊那松島間が開通(当時は路面電車)し、営業運転を開始しました。

 

大正3年に市内4駅開業

大正3年11月 開業時の赤穂駅(現在の駒ヶ根駅)と花電車(木下兼光さん撮影 駒ヶ根博物館蔵)
大正3年11月 開業時の赤穂駅(現在の駒ヶ根駅)と花電車(木下兼光さん撮影 駒ヶ根博物館蔵)

 線路敷設工事は徐々に南下し、大田切駅と赤穂駅(昭和34年(1959年)に駒ヶ根駅に改称)は大正3年(1914年)10月31日に、小町屋駅と伊那福岡駅は同年12月26日に開業しました。
 赤穂駅では、開業日から3日間にわたり盛大に祝賀会が開催されました。駅では、入口に大アーチ、周囲に紅白幕、構内に開通式場、舞台、宴会場を設け、イルミネーションや花火などで彩りました。各町内でも紅白幕やちょうちん、造り花で装飾を尽くし、農繁期にもかかわらず大勢の人が見物に押し寄せたそうです。
 飯田まで開通したのは大正12年(1923年)。天竜峡は昭和2年(1927年)に開通しました。その後、伊那電気鉄道は、昭和18年(1943年)に三信鉄道、鳳来寺鉄道、豊川鉄道と共に一括して国有鉄道に移管されました。

 

駅を中心に駒ヶ根市は発展

昭和42年7月23日 新宿・駒ヶ根間を結ぶ「臨時急行こまがね号」の初運転記念花束贈呈式(北村四郎さん提供)
昭和42年7月23日 新宿・駒ヶ根間を結ぶ「臨時急行こまがね号」の初運転記念花束贈呈式(北村四郎さん提供)

 鉄道の開通により、貨物や旅客の輸送が飛躍的に向上しました。東京・名古屋方面の貨物輸送は全て鉄道が利用できるようになり、さらに昭和40年頃から60年頃には、新宿とを結ぶ急行「こまがね」、名古屋とを結ぶ急行「伊那」などの列車も運行するなど、駅を中心に当市は大きく発展してきました。
 ところが車社会の進展、高速道路などの道路網の整備、高速バスの運行の影響などにより、飯田線の利用者は減少し続け、平成25年度(2013年)から駒ヶ根駅もJRの駅員配置がなくなりました。

地域資源としての新たな価値

近年の駒ヶ根駅(小林哲さん撮影)
近年の駒ヶ根駅(小林哲さん撮影)

 しかし、現在においても、飯田線は高校生を中心とした地域の重要な足であり、多くの人々を送迎し、観光客を魅了できる潜在的な地域資源でもあります。
 鉄道が開通して100年を迎える本年。多くの団体が一つになり「駒ヶ根市の鉄道100年地域活性化事業実行委員会」を結成し、飯田線の価値の再認識、駅を軸に観光地やまちのにぎわいの創出、これにつながる飯田線の利用促進を記念イベントとして行い、これから100年の礎となる年にしていきます。